ひとつの愛の終わり、痛みの行方 #ソフィ・カル「限局性激痛」
ふと思い出すことがある。
思い出そうと思って思い出すのではなくて、気づくとその光景が浮かんでいる。
それはたいていの場合、害のない美しい思い出だ。それが痛みを伴うものであったことを、今では遠い昔のことのように感じる。
https://bijutsutecho.com/exhibitions/3138
ソフィ カル ─ 限局性激痛 原美術館コレクションより
原美術館で世界初公開された「限局性激痛」は、カルの失恋体験による痛みとその治癒を、写真と文章で作品化したもの。タイトルは、医学用語で身体部位を襲う限局性(狭い範囲)の鋭い痛みや苦しみを意味する。人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第1部、そして、その不幸話を他人に語り、代わりに相手のもっとも辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を癒していく第2部で構成され、鑑賞者に様々な問いを投げかける。
喪失、感情の往復と横断、そして治癒へ
およそ3ヶ月間、彼女はその活動を続ける。ギャラリーには、別れたその瞬間に滞在していたホテルの内装が撮られた写真と、彼女の語りが文字に起こされたものとが並べられた形で展示されていた(上記サイト掲載の展示風景を参照されたい)。どの語りについても、写真は全く同じものが使われているのに対し、友人に対する彼女の語りの内容(それは話し言葉である)が通時的に変化していく、その対比が妙に引っ掛かった。私はそこに、ひとりの人間が喪失から再生へ向かう過程を見たような気がした。
語りの変化をいささか乱暴に表すなら、「否認」「怒り」「あきらめ」の3段階。彼女がこれらの感情の起伏を、時に往復しながら、しかし確かな足取りで横断していったことが見てとれる。
別れの場面を事実として克明に語っていく一方、こうすれば状況は変わっていたかもしれない、と状況を受け入れきれない「否認」の段階。 そしてそれは、他に好きな人ができたとあっけなく自分に別れを告げた相手に対する、馬鹿馬鹿しいという感情、「怒り」へと変容する。
自省と他責がないまぜになった思いは、ごくありふれたひとつの恋が終わった、ただそれだけのことである、と一蹴しようとする「あきらめ」や諦観に収束していく。淡々と事実を語るだけ、別れて間もない時の語りと比較して著しく言葉数が少なくなっているところに、超然的な態度すら感じた。そこで、彼女が失恋の痛みをくぐり抜けていることに、ふと気づかされる。
特効薬のない「限局性激痛」
本展の命題「限局性激痛」に表されるように、別れはしばしば、局地的な「傷」、それによる「痛み」に例えられる。
しかしそれは、時間が経てば(傷口がふさがれば)かつてそこにあったことすら忘れる、切り傷のようなものではない。むしろ、身体の一部分が唐突に、かつ強引にえぐり取られたものに近い。傷口の表面には瘡蓋ができ、剥がれ、それが何度か繰り返される。次第に痛みを感じなくなっていく。元々どんな状態だったか、正確な形までは思い出せない。ただひとつ確かなことは、えぐり取られた部分がどこまでも埋まることのない穴として、空白として、残り続けているということだ。
他に好きな人ができたという別れ方は、ごくありふれたひとつの恋の終わり、と語られるように、類型的なものなのかもしれない。ただ、別れや喪失による傷のかたち、その痛みの感じ方は極めて個人的であると私は思う。特効薬のない、どこまでも個人的な痛みからどうすれば抜け出せるのだろうか。
モノローグの形をとったダイアローグ
よく言われることだ、「他にいい人を見つけなよ」。そうかもしれない、きっとそうなんだろう。でも、相手が自分の世界から退場してしまったことをうまく受け入れられない状態で、ほかの誰かに心を傾けることが果たしてできるだろうか。彼女の写真と言葉を追っていて発見したのは、そうやって自らの内面、あるいはソフィ・カルその人と、声を発さないかたちで対話をしていた自分自身だった。彼女の感情の起伏、通時的な変化を垣間見て、「自分はあの時どうだっただろう」と反芻させられる。今はもう擦り切れそうになった懐かしいビデオテープ、その同じシーンだけを、何度も何度も再生するみたいに。
特効薬がない中で唯一できることは、自分の感情の在りかを定点的に確かめること、それを繰り返すこと。それらは自分以外の誰かに吐露するという形を通じてなされるものでもあった。私自身、ひとの悩みや何かに苛まれている話を聞くと、決して同じようには感じられないが、親密な感情を抱いてしまう。それは、息も絶え絶えになりながら、喪失をくぐり抜けてきた者同士が痛みを分かち合うような感覚に似たようなものだった。
できれば忘れ方を
あきらめ、もう元には戻らないだろうという諦観を経ても、痛みの経験にどうしようもなく影響されている自分を見つけることがある。時にそれは自分の足をこわばらせ、動かなくさせる。どこまでいったら、別れることができたと言えるのだろうか。そもそも、本当の別れというものはあるのだろうか。
わからない。ひとつ思えるのは、傷と痛みの記憶、あとに残った空白に対する「意味付け」を経た時、そこに達するのかもしれないということ。そこに痛みがあったことすら忘れてしまうことが「別れ」だとはどうしても思えない。なぜなら、痛みを通過することによって、ひとの感情に寄り添うことができたり、切実な思いに心を動かされたり、それが前に進むための原動力や推進力になっていたり、だからこそ今の自分たり得ていると思うとき、過去への耽溺から脱却する微かな兆しをそこに感じることができるから。
いつの日か、お互いに喪失をくぐりぬけようとする誰かと語り合ったとき、反芻したあの痛みが、失ったものと別れなおし、そして自らが生まれなおすために必要な「限局的激痛」であったことを、発見することになる。
人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
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